今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲
継承
「実家で採れたミカンです。」
「ご実家にミカンの木があるんですか。」
「ええ。実家を新築した時に、果物の木を植えようと、育てやすいと言って、両親が植えたんです。毎年、主に父が収穫していたんですが、今年は長女と私で昨日採りました。」
「ずいぶん立派ですね。ありがとうございます。」
隣に住むおじさんは、一回りも二回りも大きいミカンを眺めて、嬉しそうに話した。
新築した時だから、かれこれ30年になる。庭の管理にも何が生っているのかにも関心がなかった私だが、父を亡くして庭に出て見渡してみると、こまごまと細工してある花壇や、アロエの霜よけシートが目に留まった。
「これは大変だ。これから誰がこれらの管理をするんだ…。」
松の木は伸び放題に伸びて、剪定の時を迎えている。マメな人だったから苦も無く、むしろ楽しんでいたのだろうが、引き継ぐことになった自分たちは、全くの門外漢である。親戚に聞いたりしながら、自分たちが管理し育てていかなければならない。
「松の木の世話について、お父さんが元気なうちに話しておかなけりゃ。」と、生前、父は言っていたが、結局、何も話さずに逝ってしまった。
「行く者は、行った先で出会う人も環境も新しくて刺激的だけど、残された者は、日常、当たり前にあったものが急に無くなって、ぽっかり穴が開いたようになる。残された者の方が、もっと寂しいかもね。」北海道の大学に通う次女が、電話してきた。
父も母もいなくなった今、今まで無意識のうちに頼っていた存在がなくなって、支えがなくなった感があることはあるが、以前に想像してたほどの喪失感がないのは、自分が「自立」しているからなのだろう。生活の基盤ができている証なのだとも言えると思う。
メソメソしている間もなく四十九日の法要も済み、待ったなしの現実が目の前に立ちはだかる。今まで曖昧にしたり結論を出さずに先延ばしにしていた課題が、山積している。自分一人だけで決断すべきものでない。「お家のこと」だけではなく、事業の継承、となると、話は簡単ではない。ここに来て、自分が背負った宿命とか運命について否応なく考えさせられる。住みたいところに住み、やりたいことをし、自由に余生を送る、などという悠長なことは、もはや言っていられない。ここに住み、しなければならないことをし、責任を果たす、という、全く逆の現実に向き合うことになりそうである。
『前後を切断せよ、妄りに過去に執着するなかれ。徒に将来に望みを属することなかれ。満身の力をこめて現実に働けというのが私の主義である』
夏目漱石のこの言葉は学生の私に大きな影響を与えた。「今」を真剣に生きる、という主義が、あの頃、決定的に信条として定着したと、今になって思える。「命の癖」という言葉があるようだが、そういう癖が、良くも悪くも自分の人生を決定づけているようである。
「一日中、図書館でプラトン全集でも読んでいたいな。」長男に言ったら、
「僕も一日中、フッサールとデカルトを読んでいたい。」
「やっぱり現象学を勉強したい?」
「うん。」
親子はどっかしら似るんだな、と苦笑した。自分は父親のどんなところが似たんだろう。これから、次第に見えてくるのだろう。