「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

真偽

「ブラジルに行ってたんですって?」

「え?」

「7月に行ってたんでしょ?」

「何言ってんの?行ってないですよ。」

「Kさんが言ってましたよ。だから大山さんは不参加だって。」

「あの時は沖縄に行ってた。ブラジルじゃない。なんでブラジルになっちゃうかな。」

「大山さんはブラジルに移民に行くんじゃないかって。皆さん、心配してましたよ。」

「まったく、呆れるね。話にならない。」

『人の口に戸は立てられない。』人の噂というものは尾ひれ羽ひれがついて、鶏だったものがしまいにはクジャクになってしまう。伝言ゲームと同じ。厄介なものである。『噂を信じちゃいけないよ。』自分の目で見て、耳で聞いて、感性で感じて確かめなければ。

結局、沖縄がブラジルになって、ダイビングが移民になった。今でも皆さんはそう認識している。誤解も甚だしい。真実を知ってもらいたいという気持ちは瞬間に消え失せ、呆れて溜息が出た。情けなくなった。

インターネットが普及して言いたい放題のネット社会になった。嘘・誹謗中傷が蔓延し、「真実」が見えなくなっている。「言論の自由」が保障されているのは認めるが、事実が歪曲されて伝播されることに憤りと呆れを感じずにはいられない。鵜呑みにする人の浅はかさと無教養さも同時に感じて呆れてしまう。当事者としては、相手にしたくない、勝手にしろ、と切り捨てたくなる思いである。

親の認知症に悩んでいる知人Tさんがいる。アメリカで開発されたメディカルフードがいいらしいという話を聞いて、Tさんに話した。Tさんは早速、親に話した。すると、

「それって、有名なのか?有名な会社の製品なのか?」と聞かれたそうである。

「有名、かどうか、どうやって判断しますか?」

「テレビで宣伝してる?」

「テレビでは宣伝していませんね。」

「じゃ、ダメだと思う。」

閉口である。議論の余地がない。

思考を掘り下げることは、たやすいことではない。自分の中での自問自答の繰り返し、そして他者との意見の応酬は苦痛さえ伴う。日常、ディベートは無用である。「有名」とは何か。「有名なものだからいいもの」なのか。Tさんの親を責める気は毛頭ない。

情報があり過ぎて取捨選択に悩んでいる。否、悩むより先にあっさり結論づけてしまう。『教養とは情報の取捨選択能力のことである』という。何十年も前、そのころ既に「情報過多」の時代と言われていた。 今は「情報窒息」の時代である。情報によって息ができない。取捨選択が困難だからこそ、投げやりになってしまっている。短絡的になっているように感じるのだ。

チェーン展開しているファミリーレストランのメニューは「マニュアルの味」がする。店員の笑顔も接客も「マニュアルの味」がする。心を感じない。地元のおじさんおばさんが営むお店の味はおじさんおばさんの味がする。接客もおじさんおばさんの味わいである。お代わり自由なドリンクバーはないけれど、一杯に込めた味わいに満足を賭ける。

画一化された時代であるからこそ、個性を求める時代だとも言える。「大手」に立ち向かう「ベンチャー」。「主流」と「亜流」の別が認め合う時代になっているように感じる。双極があって、ちょうどいい。

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