「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

必死

「おはようございます。」

「おはよう。いつも元気だね〜。おれもそんな風になれるかね〜。」

「大丈夫ですよ。すぐになれますよ!」

毎朝7時前。愛犬ジョイの散歩の最中に、両手に介護用ステッキを握って、自由にならない両足を引きずる様に歩いている男の人がいる。名前は知らない。80歳に届こうとしているだろうか、知的な面持ちのその方は、リハビリなのだろう、毎日の日課なのだろう、野球帽をかぶって一生懸命歩いている。

愛犬ジョイの、キャンキャン飛び跳ねて甘ったれる愛くるしい様子に満面の笑顔を浮かべて、重っ苦しく言葉を吐いた。人生わからない。なりたくてそうなったわけじゃない。自分は大丈夫。絶対大丈夫、とたいていの人は思っているらしいが、自分も他人(ひと)ごとではない。パスポートの更新のためにセルフィ写真を撮ったら、左のこめかみに白いものが!自分も我知らず歳をとっているのだ。

最近、よく言われるようになった。今までも言われてきたようだが、気にも留めなかった言葉である。

「何か、薄くなってきたみたい。やばいよ。」

「増毛剤、いいのがあるよ。」

自然現象は人間の力ではコントロールすることはできない。地震・台風・雷・竜巻…。備えることはできても、止めることはできない。

先日、某国立大学の公開講座に参加した。テーマは『来るべき時に備えて』。

国際情勢、国内情勢、家庭的状況、個人的状況、何をとっても不確定的なものばかり。将来を約束されたものは何一つない。自分という一個人ができることは、せいぜい「家族」と「自分自身」を「守る」ことくらいしかない。何を守るか?「幸せ」を守る。そのためには、まず健康。次に経済。最低この二つが保証されていれば何とかなる、とのことであった。

納得である。トランプ大統領もプーチン大統領も習近平国家主席も安倍首相も、自分を守ってはくれない。「天は自ら救うものを救う」のだ。自己責任である。

凄い!と思った出来事がある。

父は83歳。昨年末に11時間に及ぶ心臓のバイパス手術をし、今月5月には肺がんの放射線治療をし、何とか最低限の元気は取り戻した。が、今夏の危険的な暑さで、ご多分に漏れず父もエアコンをつけずに「屋内熱中症」の気味で食欲が減退、憔悴して、たまたま経過観察の外来の際にドクターに「このままじゃ死んじゃうから入院させてください。」と懇願したのだ。今まで見たことのない必死な面持ちだった。 「この病院は施設ではないのでそういう入院は受け入れられません。」情のかけらも感じられない事務的な返答だった。沈黙の後、

「この診察の後、患者支援相談の予約を取ってあるのでそこで相談します。」父は必死だった。

「では、施設に入る方向で相談してください。」医者は無機的に応えた。

相談員と相談している最中にその主治医から電話が入った。

「検査入院ということで入院してもらいます。」との趣旨であった。

父は「してやったり」の表情で思い通り検査入院となり、一週間の検査入院の後、無事退院となり、今は介護食を摂るに至っている。おかげさまで元気を取り戻した。

「必死」になる。「一生懸命やっていたら、必ず助けてくれる人が現れる。」言葉は聞いていたけれど、父の一件で見ることができた。

「道」は、拓かれるものなのだ、そう思った。

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