今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲
One Chance
歴史を語る時、「たられば」はタブーといわれる。「覆水盆に返らず」。仮定の話をしたところで歴史は歴史。変えられない。世界史も日本史も自分史も。
人の人生はわからない。今はよくも悪くも、この先どうなるかわからない。今はぱっとしなくても、いつどこでどんな花を咲かせるかわからない。今までどんなに思い通りになっていなくても、不本意な生き方をしてきたと思っていても、自分はダメ人間だと思っていたとしても、ある瞬間、はち切れんばかりの幸せを享受すると、それまでのすべてが「是」となってしまう。すべてが「あれで良かった」と思えるようになってしまう。全肯定されてしまうのだ。「自信は成功体験の蓄積である」と言われるが、それまで全く自信のかけらもなかったとしても、一瞬にして自信家になってしまう。しかも、そういうケースの場合、「謙虚な自信家」になれるようである。わりと順調な生き方をしている人よりも、優しさや温かさ、包容力を感じさせる人になれるようである。
フロイトは表層心理を海に浮かぶ木の葉に例えた。海のうねりに揉まれて木の葉は漂う。海のうねりが深層心理である。人生は大海の潮流の如し。運命論者になるつもりはないが、人は如何ともしがたい潮の流れに乗せられて、如何ともしがたい方向に向かって生かされているようにも思える。
その潮流の中で、人は人と出会い、生きる方向が定められていく。「縁」のなせる業なのだろう。人との出会いほど偶然はない。もっとも、強く念じることで念じたとおりの人に出会ったという事実も聞いたことがある。因みに、今のところ自分にはそういう経験はない。偶然出会ったその人からの繋がりで、また次の人に出会い、また次の人に出会い…。人生は不可思議である。
そうしてその先に、自分の生きるフィールドに出会う。居心地のいいフィールドであったり、自己発現を十分にできるフィールドだったり。「井の中の蛙大海を知らず」であってはならない。どんどん外に出ていかなければ。自分の可能性や幸せの実現は、今着ている衣を一枚、また一枚、脱いだり着たりしながら果たされるものではないのか。「安住」は、自分を完全燃焼できるフィールドを得て、「己の欲するところに従えども則を越えず」の心境に達せられて、初めて享受できる境地だと思う。
「おまえが守ろうとしているものは何?」
高校時代からの親友に聞かれた。あまりにも唐突な問いだった。
「…。えっ?無いなあ。守ろうという意識がそもそも無い。」
「そうだろうなあ。そう見えるよ。」
「おまえは守らなきゃならないものがいっぱいあるだろ。」
「そうなんだよ。公務員だし、管理職になった瞬間から気を遣う生き方になった。」
「そうだよな。仕方ない。その点、おれは自由だ。」
「そう見えるよ。それは羨ましい。おまえは自由人だよな。」
そう言われてはっとした。「自由人」。自分は人として最も尊いことは「自由」だと考えている。「自由」を束縛することは最も罪なことと考えている。身体的に拘束することはできても、精神まで拘束することはできない。精神の自由を束縛することは罪悪だと考えている。「おまえは自由人」と言われて一瞬ドキッとしたが、嬉しかった。「自分は自他共に認める自由を謳歌してきた人間なんだ」と思えたからである。勲章をもらった気持になった。
「守る」の定義は様々ある。自己弁護に聞こえるかもしれないが誤解を避けるために触れておくが、自分は社会秩序や規範や平和を「壊す」ことをする人間では決してない。そして「平穏」を求めない人間でもない。唯一、自分が「守る」ものは「生命の自由」と言えようか。この世に生を受けて、人は皆、めらめらと燃える命の炎を持っている。その炎を絶やさず完全燃焼させることが、すなわち人生の本質だと考えている。人生の本質に立ち返った時、そこに自分を改めて発見し、その自分を守ることは、今までもしてきたし、これからもしていくことに変わりはない。