今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲
本音
「向き合うことね。」
グサッと突き刺さった。
最近の自分のテーマ、「向き合う」。
人生は「出会いと決断の連続」と言われる。人は一日のうちで2万回決断をしているという。今までも何かに「向き合って」とことん考え結論を出しながら生きてきたことに違いはない。しかし、「向き合う」という言葉を意識したことはなかった。その証拠に「向き合う」という言葉が初めて聞く言葉のようだからである。
ある事柄と向き合う。自分と向き合う。人と向き合う。今まで、事柄と向き合うことや自分と向き合うことはしていたようだが、「人と向き合う」ということはあまりしてきたことがなかったように思える。日常の人間関係の中で会話し議論し、ということはしてきても、「向き合う」という言葉で表現されるシチュエーションはあまり記憶にない。そのくらい「向き合う」ほどのことはなかったのか、敢えて避けてきたのか。そもそも自分の辞書に「向き合う」という言葉がなかったのだ。
「本音で語りなさい。」
一瞬、時間が止まった。「本音」?
「本音で語りなさい。丸裸の自分をさらけ出す。それが一番いい。」
ショックだった。そもそも「本音」って何?「自分の本音」って何? 思った。自分は本音で話したことがないようだ。あったとしても、それは自分の核心についてではない。「本音で語る。それが一番楽。」
そうなのか。そうなのかもしれない。そう思うくらいだから、「本音」で語ったことがないのだろう。かつて本欄で紹介したことがある。「武装解除して一人の人間として向き合う」。姜尚中氏の言葉である。社会的な立場、家庭的な立場を捨てて、一人の人間として向き合うことが、時として大切である、という。
「人は理屈じゃ動かねえんだよ」と寅さんも言っている。恰好つけたり美辞麗句を並べても人の心には響かない。自分をさらけ出し自分の思いを率直にぶつけることでしか、人には伝わらないのかもしれない。
「自分は本音で語るということをあまりしてこなかったようなんです。」
「そうかしら。率直に発言して、いろいろ改革もしてこられたでしょ。」
「公的な場では批判を恐れず発言してきた方だと思いますが、プライベートでは自分を語るということはあまりしてこなかった方ですね。恥ずかしさが先立って。」
「それは、皆そうだと思いますよ。なかなか自分の本音は語りにくいものだと思いますよ。でも、その人の本音が見えた時は、話に聞き入りますよね。」
「そうですね。でも、やはり、防衛本能のようなものが働いて、これ以上は話せない。これ以上は見せたくない。これ以上は知られたくない。そんな気になって、なかなか踏み込めないんです。」
「考えてみると、本音で話せる人は結構、魅力的に見えるかも。引き込まれるというか。あまり何でもしゃべる人はえげつなく感じるけど。」
「その辺を考えてしまうんですよね。」
「プライドがあるからでしょ。カッコよくいたい、みたいな。」
「それは否めませんね。お高く留まっていたいみたいなところがあるのかもしれません。」
「所詮、おしゃべりなんだから、気にしないでしゃべっていいと思いますよ。気楽でいいと思いますよ。」
「説得」とは違って「共感」を得る。そのための「本音」。向き合う時が来ている。