「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

踊り場

中央高速道路の大月JCTから富士吉田市方面に向かうと正面にどんと富士山が現れる。 そして吸い込まれるようにどんどん近づいて行く。リニア見学センター周辺の山々は紅葉のいい季節で、こんな風景に出会うのは何年ぶりだろうかと思わされる。 進行方向左に富士急ハイランドが見えると、そこは河口湖の入り口である。

「河口湖にでも行こうか。」と、思い立ったが吉日。車でひとっ走り。そんな日帰り旅行をかつてはしていたものだ。 このところ、季節の移り変わりも気に留まらず、何やらひたむきに忙しなく過ごしてきたことに気付く。

「紅葉を愛でるなんて久しくしてないですね。」ため息交じりに人生の先輩にぼやくと、「余裕は必要だよね。何やるにしても。」と諭すような物言いである。

「春の桜に秋の月。そんな風情とは無縁の毎日でしたね。」

「そういう時もあるだろうけど、余裕がないといい仕事もできないよね。」

「おっしゃる通りです。なんか、ひたすらがむしゃらにやってきましたね。周りの景色も全く目に入って来ませんでした。」

「少しは息抜きも必要だよ。」

反論の余地はない。ギターの弦がピンと張りつめて、今にも弾け切れる寸前。とことん自分を追い詰めて、これ以上できないところまでいかないと諦めがつかない自分の性格は自覚している。それが短所でもあることもわかっている。でも、それが性分というものなのだろう。なかなか直しようがない。

「考え過ぎ。もっと気楽にやったら?」とか「考えてもどうなるものでもないでしょ。」とか言われること がある。全くその通りだと思う。でも、性分というものは、厄介なものだ。

『何故、山に登るのか。そこに山があるから』という言葉があるけれど、自分は山登りは好きじゃない。

「えっ?なんでですか?」

「辛い思いをしてまでも登ろうとは思わない。」

「でも、達成感とか、征服感を味わえるのが登山の醍醐味じゃないですか?」

「敢えて自分に負荷をかけるのは好きじゃない。」と、人生の先輩は平然と言いのけた。

「自分とは違うな。」と瞬間、思ったが「そういう生き方もあって当然いい。」と、同時に、無条件、肯定した。

『鈍感力』は幸福の条件の一つだと言う。本当にそう思う。「気にしない、気にならない」ことが要らぬストレスを回避させる。『無感覚』的であることも時には必要なのである。

「ケセラセラ」=「なるようになる」

「明日は明日の風が吹く」

そんな言葉に励まされチカラを与えられながら生きて行く。

「聡明な人間ほど苦悩する」という言葉を支えに学生の頃は「真理とは何か」を追究し続けていたことを思い出す。「デカンショデカンショで半年暮らす。残りの半年寝て暮らす」生活に憧れて哲学・思想・文学を読み漁ったあの頃が懐かしい。徹底的に観念的になり、徹底的に理想を求めていたあの頃が、懐かしい。「極める」ことにこだわる姿勢はあの頃に確立されたように、今、思える。

人生の年輪を重ねて今思うことは、当時目指していた「人格の完成」は「完成された人間というものがあ り得ない」以上、あり得ない、という虚しさである。それなら、何を目指して生きるべきなのだろう?そう考えた時、人は皆、生き方・価値観は千差万別であり、その善悪に絶対性はない、という諦めに等しい結論に至る。

霊峰富士は、そんなことを考えさせてくれた。

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