「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

鼓舞

桜前線の北上と共に、日本列島は春の気配に染まっていく。

自分の大学受験当時の今頃を思い起こした。「桜吹雪に吹かれながら哲学の道を歩くんだ。嵐山の桜吹雪に吹かれながら渡月橋を渡るんだ。」と夢見て、自分自身を鼓舞して大学受験生活を送った日々がつい昨日のことのようである。現役でその夢は果たされず、宇宙が崩れんばかりの絶望感と空虚感にさいなまされた日々がどれほど続いたろう。出るはため息。しかし、同期の半分は浪人、という連帯感が次第に自分を慰めてくれ「結果の原因は全て自分の勉強不足にある」と、ようやく気持ちの整理ができ、自分を押し出すように重い足を引きずるようにして、やっとの思いで予備校受験をすることになった。合格発表で自分の番号を見つけた時は嬉しかった。「受かる、ってこんなに嬉しいものなのか」と思った。

4月11日。日本武道館での予備校の入学式に友人と共に参加した。現地に行って驚いた。翌12日は東大の入学式であることを立て看板で知った。東大は創立記念日に合わせて毎年4月12日に入学式を行うということもその時、知った。「来年の予行演習だ。」悔しさと決意が入り混じった。

その日から、雪辱戦が始まった。予備校の「合格体験記」通りに予習復習を実行した。授業は素晴らしかった。「数学ってこうやって解くものなのか。英語ってこうやって訳すのか。古文って理詰めなんだ…。」しかし「これだけの勉強で来年、本当に受かるんだろうか」という不安は常に消えることはなかった。一日にできる勉強量は期待していたほど多くはなかったからだ。数学に関しては一学期で取り組む問題はたった88問。しかも、予習で解ける問題は一問もなかった。二学期になるともっと難しくなるという。焦りが走った。「落ち着け。足元を見ろ。足元を固めろ。」現役で受かることの「偉大さ」が痛いほど感じられてきた。

夏休みは復習を何度も繰り返した。新しいことは全くやらなかった。「合格体験記」通りである。数学に関しては7〜8回繰り返した。それでやっと解った。数学の解き方がやっと身に付いた感があった。

二学期。うわさ通り、数学はとんでもなかった。夏休みに身に付いたはずの解法が役に立たなかった。焦った。「これじゃ、だめだ。」家に帰って、すらすらできるまでやり直した。平均5回くらいは繰り返しただ ろう。この時期になってさえ数学がこんなにできないとは…。自信喪失した。でも、でもである。自分だけではなかった。皆も同じだった。「こんな問題まで解かなくても受かるだろう」と、皆が思っていた。「自分 だけじゃない。皆も同じだ。焦ることない。」自分を慰め、励ました。ここまで来たらあとは気持ちの問題だ。「絶対受かる」と思い続けよう。10月くらいから毎日、本郷に通った。予備校で席が隣同士で父親が病院経営をしているというT君は大のグルメだった。「本郷の学食に行こう。」と、彼が毎日のように誘ってくれた。彼の存在は自分にとってよきサポーターであり助言者だった。お互い弱音を吐き合いながら、結果的には励まし合った。そして、大学の写真を撮って机の上に置き、毎日「絶対受かってやる」と念じながら勉強に向かった。

彼は結局、四年浪人して山陰地方の国立大医学部に入った。「おめでとう。よく頑張ったな。偉いよ。」彼からの吉報を電話で聞いて真っ先に口を突いて出た言葉だった。現役で入ることも偉大である。浪人して入 ることも同様に偉大である。意志を貫き通し念願成就させる過程の苦労は、それ自体に価値あることだからだ。浪人の時期は決して楽ではない。常に、不安と挫折しそうな自分と背中合わせである。艱難辛苦を経て 克服することに自体に、価値があるからである。

3月。受験が終わり手応えを感じた。「受かった」と思った。発表は確認のために見に行けた。受験番号を先に見つけた弟が手叩きして「あった、あった」と叫んでいた。私の受験生活が、終わった。

ここに一枚の写真がある。写真は瞬間しか捉えないがすべてを物語るものだ。今でも聞こえるあの時の声・音。今でも見えるあの時の景色。今でも心に刻まれているあの時の感動。折に触れて蘇る思い出の数々は、折れそうになる自分を支えてくれたり励ましてくれたりする。

桜の季節を迎えながら、新しいステージに立つ自分を「頑張れ」と、鼓舞してみたい。そう、思う。

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