「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

安穏

「俺はここが一番。どこにも行こうとは思わない。」

iPhoneをスワイプさせて、Y氏が一枚の写真を私に見せた。青く細長いカヤックと一体となった写真の男は、麦わら帽子に黒いサングラス。ライフジャケットをまとって堂々と自信に満ちた表情をしていた。しかし、どう見ても地元の漁師にしか見えない。

「これ、お前か?」

「そうだ。」

自前のカヤックで休日は地元横須賀のビーチでのんびり海の上を散策するのだそうだ。

「横須賀にもこんなビーチがあったのか。」

米軍の空母や艦船しか係留していない港だと思っていたら、海水浴もできる静かなビーチもあるのだそうだ。

横須賀生まれ、横須賀育ちの友人Y氏とは約一年ぶりである。10年ほど前まではアナログカメラの写真家として独立して腕を振るっていたが、デジカメの普及で仕事がなくなり、今はデザイン関係の会社に勤めている。私もデジカメ登場以前はアナログの一眼レフカメラを背負って、36枚撮りのフィルムをごっそりリュックに詰めて旅に出ては、一枚一枚にこだわって撮っていたものだ。デジカメが普及したことで私も次第にカメラから遠ざかり、今では全くと言っていいほど撮らなくなってしまった。お蔭で私の2台のカメラはバッグに詰められたまま何年も眠っていたわけだが、次女が北海道の大学に進学して写真サークルに入ったこ とで日の目を見ることになった。今では次女は骨董品とも言えるアナログカメラを格安で数台購入し、車に積んで深夜早朝問わず仲間と写真を撮りに走り回っている。

「また、カメラをやり始めようと思ってる。」Y氏は私に同意を求めているような表情で語り始めた。
「デジカメでは出せない風合いがある。俺が本当に撮りたい写真を撮りたい。アナログだから出せる風合いの写真を撮りたい。」

「いいと思うよ。」

それで食べて行けるの?とは聞けなかった。

「そろそろ子育ても終わるから、これからは自分のやりたいことをやっていきたいし。」

頭髪は全面白髪と化していた。一年前には白髪は全くなかった。何があってこんなになったのだろうと思わずにいられなかった。子供2人をY氏一人で育ててきた。毎日お弁当作りを欠かしたことはなかったという。

「横須賀はいい所。今度、俺のオープンカーで案内してやる。」

「案内してくれるほどの所か?」

「これがオレの車。20年前のロードスター。」

そう言って自慢げにiPhoneを手渡すのだ。

『生きる』って大変なことだな。男手ひとつで子供を育て上げる途上の苦労はいかばかりか。自分はまだまだ甘いな。そう、思えてならなかった。

「これからだったら秋風に吹かれる頃が一番いい。来年でもいい。横須賀は最高だ。俺はここが一番。どこにも行こうとは思わない。」

「他にもいい所はいっぱいあるだろ。」なんてヤボなことは言えるわけもない。彼は横須賀をこよなく愛してる。大好きだ。そう思える彼がうらやましかった。

このところ、私も旅行に行けていない。仕事の都合上、時間に縛られ身動きが取れない。心身ともにギリギリの日が続いてきた。そして今はそうした状況に慣れが生じてきたようだ。特に遠出をしようとは思わないし、そんな気力も湧いてこない。人生途上そういう一時があってもいいだろう、くらいに思っている。Y氏のように、自分の地元が大好き、という心境にはなれていないが、海もなく山も川もない地元で、どこに行かなくても、おとなしく静かに時を過ごすことに楽しみを見出し安堵を得る。そんな生活もいいな、と思える。

ひと夏が過ぎると、すがすがしい海風山風が、横須賀には吹き渡るのだという。

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