「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

人生に完璧はない。

誰もがそうだと思うはずである。それでも多くの人が心のどこかで完璧を目指しているように思う。我々は「完璧」あるいは「完全」という言葉に憑かれた生き物のようだ。

完璧に仕事をこなせなければ、それだけで自分はダメだと思ってしまい、さらに自分を追い詰めることになる人がいる。まあまあで適当になんとなく仕事していながら、明るく楽しく幸せそうにしている人もいる。

完璧な仕事のやり方はあるかもしれない。だが、完璧な仕事をした人が必ずしも完璧な人とは限らない。むしろ、そのことで心身がボロボロになることの方が多い。

ある役所に勤めていた人の話である。「完璧」な仕事を長年、心がけてきた人だ。真面目で堅苦しい人ではあった。やがて定年を迎え民間企業に移籍した。経理に関する資格と経験を生かした再就職であった。しかし、役所にいた時の様に完璧な仕事をしようとすれば「仕事が遅い」と言われる。やがて、やっかい者扱いされてしまい、元いた役所に相談に行ったら「後輩の再就職にも関わることだからもっとうまくやってもらわないと困る」と言われたという。心身ともに疲弊しきって会社を辞めた時は、胃潰瘍とノイローゼになっていた。

完璧を目指す人は失敗を極度に気にする。生真面目すぎて発想が硬直している。常識を振り回すことが多いが、それはそれ以外の方法が思いつかないからである。気の休まらない人生を続けることになる。仕事に縛られた人とはこういう人のことを言うのだ。

そういう人はまず、失敗を受け入れる覚悟を持つことだ。そして人生に対して一つ、小さなケジメをつけることである。

人は大小様々な失敗を繰り返しながら生きていく。仕事も人生もそうである。大切なのはすべての失敗を修復することではない。思い出さないようにするしかない失敗もあるし、笑って済ませる失敗もある。完璧を求めるより、何度でもやり直しがきくのだからと思う人生の方が気楽なはずである。人生の時々で過去を振り返り、失敗を苦笑し、「それも運命だったのだ」と整理してしまうのも、気楽に生きる知恵と言えるだろう。

人は皆、過去という荷物を背負って生きている。思い出したくもない、できるなら消し去ってしまいたい事実でも、自分史に刻まれた史実はどうやっても消すことはできない。「過去の清算」と一般的には言うけれど、清算できる過去ならまだいい。どうにも清算できない過去だってあるのだ。「何であんなことをしてしまったのだろう。何であんなことを言ってしまったのだろう」と悔いても覆水盆に返らず。後悔先に立たず、である。そして、「それも運命だったのだ」「運が悪かったのだ」と、一見、安易な整理の仕方もある。賢いかずるいか知れないが、そういう知恵が人にはあるのだ。それで、過去という荷物が軽くなったりするのである。

ノーベル賞にまつわる成功談は例外なく美談である。Success Storyは確かに感動である。しかし、自分に照らしてみると「そんなこと真似しろって言われてもできっこない」と、はなから他人事であったりする。その時は感動しても、次の瞬間にはもう白けてしまっているのだ。でも、仕方ない。他人(ひと)は他人(ひと)、自分は自分、なのだから。寅さんも言っていた。「俺とお前は別の人間なんだ」と。「人生の中で誰にでも運というものが二度や三度は訪れると言います。そしてその運を掴むか掴まないかでその人の人生が大きく変わってくる」と五代目三遊亭圓楽師匠が言っていた。

「これが運ですよ。」と運の方が言ってくれるなら、有無を言わず喜んでその運を掴める。が、残念なことに「運」はものを言ってくれない。だからそれが運なのかどうかわからない。それが悔しい。

また、「幸運の女神は常に準備している人にのみ微笑む。(Chance favours the prepared mind.)」(パスツール)という。それなら、「運」は決して偶然訪れるのではなく必然的に訪れるものなのだ、と言えるのではないか。「天は自ら助くる者を助く」からである。

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