今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲
異文化
木々が秋の色に染まるにはまだ早い10月末、京都嵐山を訪れた。
外国人にとって「世界で最も訪れたい都市」の第一位が京都というからやむを得ない、外国人で群がっている。もはや日本人より多いように感じられる。京都に来るたびに、嵐山には吸い寄せられるように足を運んでいるのだが、その度に外国人が増えている。特に中国人韓国人の多さと、その喧噪には正直、閉口である。
京には1200 年以上にわたる重い歴史と流れてきた悠久な時間があり、その中で生まれ育まれてきた文化がある。そして訪れる人たちを風情で包み、安らぎや自分を振り返る機会を与えてくれる。それはそこに日本人としてのアイデンティティがあるからであり、だからこそ京全体が奈良と共に世界遺産に認定されたのだ。
「嵐山に限らず観光地化された京都に素の京都を求めることはもはやできないねえ。」と京都で一人暮らしをしている長女にぽつんと言ったら、
「早朝に行ったら?誰もいないと思うよ。」
「そうか、その手があったか。」
元より朝は得意である。毎朝5 時頃には起床する習慣がついている。
「よし、明日の朝早くに行こう。」と、期待してその晩は早く就寝した。
そして翌朝、空いている道を飛ばして嵐山に向かった。さすがは京都である。早朝は寒い。手袋が欲しいくらいだった。
到着してみると、期待通り、人は一人もいなかった。店がやっと開こうかとしている時だった。
「嵐山独占だね。」長女の一言に、
「ホントだね。いいねえ。」私は静かな安堵感と喜びに浸った。そこには人の声は全く無く、大堰川のせせらぎの声と、向こうに架かる渡月橋、それを見守る嵐山だけが、音もなくどっしり座っていた。
「京都は日本人だけのものじゃないからね。世界中の人達のものだから。でも、嵐山には琴や三味線がどこからともなく聞こえてきて、街行く人は和服姿でのんびりと、古風なお店で抹茶をすすって…、そういうのがやっぱり似合う。」私がため息混じりに言うと、
「そうだよね。それが日本の文化だよね。」長女も妙に納得していた。
ミャンマーの総選挙ではアウン・サン・スー・チー党首率いる最大野党、国民民主連盟(NLD)が全議席の過半数を占め、次期政権を担うことが確実となった。民主化を進めてきたスー・チー氏は、軍事政権下で長く自宅軟禁されるなど激しい弾圧を受けてきたが、政権獲得後には“We have no intention of taking revenge”(復讐するつもりはない)“I do not believe in persecution or revenge.”(私は迫害や復讐というものをまったく信じない)などと語り、過去は水に流す姿勢を強調している。
ただ、息子2人が英国籍のスー・チー氏は、憲法が外国籍を持つ親族がいる人物が大統領になることを禁じているため大統領にはなれない。そのため“above the president”(大統領以上の存在)になると公言。大統領は「傀儡」で自ら最高実力者として君臨する考えを示していることに対し、国際社会からは「二重権力」「独裁」などといった懸念が早くも寄せられているが、「大統領以上の存在」になることを主張してはばからないのは、日本では絶対ありえない文化である。
それぞれの国にそれぞれの文化がある。日本人が欧米の文化に憧れるのと、欧米人が日本の文化に憧れるのと、その程度は同じなのかどうか。異文化に対する興味と憧憬は誰しもが抱くことだが、「郷に入っては郷に従え」。その国・土地の文化に馴染もうとする態度が大切である。それでこそ、その土地の良さを味わえるというもの。
「我が身をつねって人の痛さを知れ。」「人の振り見て我が振り直せ。」
日常の中でも活かさないと。京の小旅行の大収穫である。