「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

新約聖書の中で最も美しいとされる山上の垂訓。場所は定かではないらしいが「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。」(『マタイ伝』5:1〜2)私が通ったキリスト教の幼稚園でも、園長先生が説教でしばしば引用していた。幼い心に沁み渡り、その後の人格形成に多大な影響をもたらした。私はクリスチャンではないが、イエスの言葉には勇気を与えられ、人を神に繋げさせる力がある。

心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。
柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は幸いである。その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
わたしのためにののしられ迫害され身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。
あなたがたより前の預言者たちも同じように迫害されたのである。(『マタイ伝』5:1〜12)

あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなればその塩は何によって塩味が付けられよう。もはや何の役にも立たず外に投げ捨てられ人々に踏みつけられるだけである。
あなたがたは世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、 あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。(『マタイ伝』5:13〜16)

あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら
左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には上着をも取らせなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に背を向けてはならない。(『マタイ伝』5:38〜42)

あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも同じことをしているではないか。

自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。(『マタイ伝』5:43〜48)

見てもらおうとして人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをする時には、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをする時は、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。(『マタイ伝』6:1〜4)

だから言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。
働きもせず紡ぎもしない。しかし言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である。(『マタイ伝』6:25〜34)

人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。(『マタイ伝』7:1〜2)

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(『マタイ伝』7:7〜8) 

だから、人にしてもらいたいと思うことは何でもあなたがたも人にしなさい。 (『マタイ伝』7:12)

狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(『マタイ伝』7:13〜14)

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