「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

同胞

5月4日、東京芸術劇場にて第64回東京六大学合唱連盟定期演奏会(六連)が開催された。私は出演者としてではない。長男が高校で合唱部に所属している関係でチケットが手に入ったのだ。実に35年ぶりである。正確に言うと観客席での鑑賞は今回が初めてである。35年前の私はステージ上にいたのだから。

当時は東京文化会館で毎年開かれていた。各大学のメンバーにとって六連は自校の定演に次ぐ一大イベントで、六連のステージに憧れて合唱団に入部してくる学生もいたほどである。 私は小学生の時に母が買ってくれた『子供のためのホームミュージック』というLP10枚セットのクラシックを毎日のように聴いていて、音楽は聴くことも演奏することも歌うことも好きだった。学校では先生によくほめられていた。オルガンは幼稚園の時に習い、ピアノも小学2年生から始めたが上達せず、5年生になる時にやめてしまった。それからピアノの先生の勧めでフルートをやり、中学校では当時フォークソング全盛期ということもあって授業でクラシックギターを習ったのをきっかけにフォークギターに熱中した。中学の部活は陸上部で毎回県大会に出場していたから練習もかなりハードだったが、帰宅してギターを抱えて夕飯も風呂もそこそこに、気付いたら夜中の3時4時、徹夜したこともあった。それほど好きだった。自作自演も何曲もした。

高校に入ってからもギターは続けた。クラスの友人から軽音楽同好会に誘われ一度行ってみたが、皆あまりにも上手くて私はひるんでしまった。それから一人で自己満足的に細々と弾いていた。「文化祭で一緒に演奏しよう」なんて言ってきた友人がいたが、私は即座に断った。軽音のヤツらは確かにすごかった。そして、カッコよかった。 音楽がやりたかったので吹奏楽部や合唱部にも入ろうかと思ったりもしたのだが、当時の浦高は部員も少なく、体を成していなかった。それで、中学に無くて悔しい思いをした念願の水泳部に入り、練習練習の日々を送る羽目になったのだ。

めでたく大学に合格したその日、声をかけてきた学生がいた。男声合唱団の責任者だという。同好会ではなく大学公認の正式な音楽部で、入学式でも日本武道館で演奏するのだと。私はググッと魅かれた。大学で何かをしようとは特に思ったことがなかったので、寝耳に水だったのだが、「合唱」に、「男だけ」に、「武道館」に、魅かれた。その名は東京大学音楽部男声合唱団コールアカデミー。「入学式で演奏するので、聴いてみて、それから入部するかどうか考えていい」と言うのだが、「入りますから。どうすればいいですか?」と、即決した。その学生は私があまりにも唐突だったからか戸惑っていたが、とにかく名前と連絡先を促されるままに書いて渡した。入部第一号だったという。蛇足だが、その学生は灘高校出身の文一2年生。一浪した駿台では成績1番だったことを後で知った。

武道館でのコールの演奏は改めて言うまでもない。感動、感激だった。「来年は自分もここで歌うんだ」と、早くも心を躍らせた。

練習は楽しかったし充実していた。毎日昼休み12時半から13時まで、駒場の正門から直ぐの第一本館の入り口が三段の階段になっていて、そこで練習である。愛唱歌、定演の課題曲、とにかく皆でよく歌った。五月祭、駒場祭、定演、京都大学とのジョイントコンサート、そして六連。やはり六連は最高のステージだった。合同演奏では倍音が鳴り響いた。

観客席からコールを見た。かつての自分を見るようだった。そして、まさにあの時の仲間たちに見えた。一人一人の顔と名前が浮かんできた。「あいつ、よく音を外す奴だったなあ。」「あいつ、ノドが鳴ってた。」「あいつは全く音楽性のない奴だった。」「学指揮が、3分の1低い、と言ってた。3分の1音ってどういう?いつもバイオリン担いで歩いていたっけ。」「あの先輩は朝日新聞、三菱商事、仏文のあの先輩は電通、通産省、大蔵省、その後エディンバラに留学したっけ…。」「お前がやめたからオレが責任者にさせられたんだ。一生恨んでやる。って半分以上本気で言ってたあいつは大阪ガス。」皆、どうしてるだろう。35年の歳月が流れた。 忘れていた帰属意識、とでもいうものが頭をもたげた。もう一度、みんなであのハーモニーを奏でたい。飲んで店を出て歌いながら駅に向かっていると通行人から異様な視線を投げかけられた。なりふり構わぬアイデンティティが、今でも心に根付いているのを確認した瞬間だった。

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