「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

理(ことわり)

『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。

たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋 ぬれば、昔ありし家はまれなり。或は去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家となる。 住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、古見し人は二三十人が中に、わづかに 一人二人なり。朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。

不知、生れ死ぬる人、 いづかたより来りて、いづかたへか去る。又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或は 露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。』(方丈記)

『祇園夕砲両發嶺瓠⊇行無常の響あり。娑羅雙樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。』(平家物語)
『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。』(奥の細道)

満開の桜は曇天の下、灰色をバックにしてもその可憐さに変わりはない。いよいよ開花、二〜三日で満開、その自信に満ちた可憐さをはちきれんばかりに誇ったかと思うと、冷たい雨に打たれ、強風に晒され、舞っていく。今年もまたそうであった。

「自分が文科大臣だったら入学式を4月1日にするね。8日頃じゃ桜は散っちゃう。もったいないだろ。その分修了式を一週間早めればいい。」
「それはいいや。文科大臣になりなよ。」
そんな愚痴っぽい話を家族としていたら、
「僕は桜がいつ咲いていつ散るか、気にしたことない。」と長男がぽつんと言った。

そういえば、自分も「桜」に関心を持ち始めたのは結構最近のことである。そもそも季節の移り変わりに気を留めていなかった。今でこそ、梅・モクレン・桜・チューリップ・ツツジ・藤・バラ・ひまわり・百日紅・金木犀・菊・牡丹…、季節を象徴する花たちを挙げることができる。何かが咲いてはいるけれど、小林秀雄さんが言うように「見えてはいる」けれど「見ていなかった」のである。もっとも、今でもちゃんと「見ている」とは到底言えないが。

日々の生活や雑事に追われていると、関心の有無ともまた違って、そこにあっても目に入ってこないことはよくあることで、鑑賞するには時間と心の余裕が必要なのだと改めて思う。夜桜の見事さもわかるが、私みたいに寒がりな人間には、わざわざ出かけて行って見る気になれないのは、桜には申し訳ないと思うが、勘弁願いたいところである。いずれにしても、桜は無常を映し出す。人生を映し出す。

今回は初彼岸だった。親戚一同が遠路駆け付けてくれて、母の在りし日を偲んで賑やかな時間を過ごした。それが何よりの故人に対する供養になるのだろう。献杯の挨拶をと、突然父に促されて私は不用意な言葉を並べる羽目になったが、「生前より母は近くに感じます。いつもここにいるような感覚があります。『私のお墓の前で泣かないでください。そこに私はいません死んでなんかいません。千の風になってあの大きな空を吹き渡っています』という歌詞の通り、いつも一緒にいるような感覚があるんです。」との言葉に、皆さんは何度も頷いて聞いてくれていた。

「親孝行、したいときには親は無し」と言われる。自分もそうだな、と思う。
古今東西変わりなし。「無常」は「普遍」である。

TOPへ戻る