今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲
天秤
「さっきはカルボナーラと言ってたのにボンゴレか。」
「だって見てたらこっちが美味しそうなんだもん。」
「大学に入って、獣医じゃなくて牧場経営したくなったなんて、そんなことにもなるのかね。」
「進路と食べ物のメニューと同じ天秤に乗せないでよ!!」
次女は真顔で語気を強めた。私は閉口しながら同時にほくそ笑んだ。
この春、次女は幼少からの夢であった獣医を目指し北海道の大学に進学を決めた。無機的なビルに囲まれた都会より広大な大地で過ごしたいと敢えて北海道行きを希望したのである。畜産獣医学部という名称の通り、日頃から牛・馬・豚・鶏等と戯れながらの「授業」が展開されるのだ。「フィールドワーク」と言えば聞こえはいいが、泥まみれになるだけでは済むはずはない。既に白衣・軍手・つなぎ・長靴を共同購入した。感染予防のための保険にも加入済みである。
幼少より野性味のある次女だった。獣医になりたいとの夢は私自身のなかでは十分に自然なことであった。街中で動物病院に勤める、開業する、動物園に勤める、等々は普通に現実的であり容易に想像がついた。しかし、いざ進路を追及してみると、私は甘かった。「動物科学では深く勉強できない。人間も医学部に行かなければできない勉強がある様に、獣医学部に行かなければできない勉強がある。」「ペットより大型動物を相手にしたい。」「アフリカの自然保護区にも行きたい。」と言うのだ。私は思考が停止し目が点になった。いよいよ我が子も自分の未知の世界に入り始めたかな、と思った。
4月からは早速、畜産関係の実習が始まる。今までにない環境の変化である。「牛・馬たちを相手にしているうちに牧場でも経営したいと思うようになったりする可能性もないことはないな。」と、ふと思った私は、次女と行ったイタリアンの店で、カマをかけたのだ。
人は縁のあるところに収まるものだ、と思う。そして、その収まった所が、その人にとって丁度いい場所なのだ、と思う。
そういうふうになっているのだ、と思う。特に毎年この時期、当塾の卒塾生がそれぞれの進路が決まり進学して行く。第二志望の学校であっても、入学してみると生き生きと充実した学校生活を送り、母校となって誇らしく卒業していく。そして「本当にこの学校で良かったと思う。」と後になって話してくれるのだ。
我が家での団欒のひと時、長男がやけにテンションが高く陽気にしているものだから、
「最近、今までになくテンション高いんじゃない?」と私が尋ねると、
「最近何も不安がない。」
すると次女が、
「人は何か意思がある時は不安がつきものだ。不安がないってことは生きる意思がないってことだ。」
私は言った。
「そんなことはない。生物には何だって生きる意思がある。アメーバだって、早く多細胞になりたいっていう意思があるはずだ。」と言ったら、皆に噴き出して爆笑された。
ともあれ、人は自分の意思に反して否定したくなる現実を突きつけられる時がある。しかし、生きとし生けるもの、収まるべきところに収まるようになっていると、思うのだ。であるから、複数のものを天秤にかけ、どちらにしようかと思っているうちは、まだ機が熟していないと言うべきなのではないかと思う。機が熟したら、もはや選択の余地がないはずである。
震災から4年が経った。あの時、日本にとどまらず世界中が一つとなって「絆」という繋がりの大切さ・ありがたさを実感し確認し、価値観を見直すことを強いられ、生き方を再考する大いなる契機となった。その後、今、あの時のあの事はどうなっているだろう。世界に、国に問うことは敢えてするつもりはない。原点を見直すことを強いられ、原点に立つことを強いられた自分を、もう一度、見つめ直す時が、来ているように感じるのである。