「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

2014年12月

一途(いちず)

平成26年度埼玉県教育功労者に選ばれた県内小・中・高・特別支援学校の校長先生方は計48人。その埼玉県教育委員会表彰式が11月10日に行われ、来賓として参列する機会を得た。まるで、選ばれた先生方だけの「卒業式」であった。

呼名された先生方は一人一人、教育委員長から表彰状、教育長から記念品を手渡され、来賓に一礼して自席に戻っていく。その後ろ姿を見送りながら熱いものが込み上げた。一教員として採用され、教壇に立っての教科指導だけでなく、生徒指導・保護者対応・部活動・学校行事等々、教員としての職務を全うし、管理職試験に合格して教頭・教育委員会などを経て校長になり、無事に今日を迎えられたのである。実は、「無事に」ということに、大きな意味があるのだ。

某校長先生が言っていた。「口外せず墓場まで持って行かなければならないことがあるんです」と。「校長になると本当にいろいろなことがあるんです」と。「何があったんですか?」とも聞けない。千人程の生徒を預かり、数十人の教員を擁する校長は大企業の社長さながらの重責を負った責任者である。人知れず飲み込み、腹に仕舞い込んだことも一つや二つでないことは想像に難くない。

そういう大変さも勿論あってのことだが、私が思ったもう一つことは、どんなことがあっても、嫌なことが多々あったにしても、中途で投げ打ったりせず、今日までこの道をまっしぐらに歩んでこられたことの偉大さと畏敬の念である。

現代は新卒社員の3割が3年で退職してしまう時代である。現代だけではない、いつの世でも社会に出ると世の中いいことばかりではない。いいことより嫌なことの方が断然多い。自分の思い通りになんかならないことがほとんどなのに、我慢をしない、頑張らない、困難を回避して楽な道を行こうとする風潮が現代には顕著である。そういう中にあって、一つの道をぶれずに完走した先生方は、それだけで十分「表彰」に足ると思ったのだ。そして「お疲れ様でした。」と、自席に戻っていく先生方一人一人の後ろ姿に我知れず素直 に言葉をかけていた。

人生には岐路がある。いくつかの選択肢の中で選ばなければならない時が、突然目前に迫る。初志を貫徹するか、見切って妥協するか。一生をかけた選択であれば、事は大事(おおごと)である。誰だって辛いことは避けたい。楽に生きたい。努力せずに夢が叶ったら、こんなに幸せなことはない。しかし、一歩一歩を踏みしめずに山頂を征服することはできない。休んでいて頂上には至れないのだ。山頂を極めたいのなら、あの頂きに立ちたいのなら、登らなければならない。頂上に至る道を阻む最大の障壁は「諦め」である。

悠久なる人類史の中で、瞬き程に過ぎない一人の一生。ひとりの人が担えるのは人類史の極一部にしか過ぎないが、線香花火のような一生でも、人ひとりの価値は、周りからの評価の如何とは無関係に、自分が自分を価値視することで絶対化されるものである。何人(なんぴと)も他人の幸せに干渉する権利はない。そして自分の幸せには自分自身しか責任を持ってくれないのである。

自宅前の公園の清掃を自治会活動として先週の日曜日におこなった。50人くらい集まっただろうか。予想に反して年配の方々より中年の方々の多いことには驚いた。私は毎日お世話になっている公園なので誰よりも一生懸命にきれいにしないといけないような義務感も手伝ったのであるが、正直なところ、公園に対する感謝の気持ちを込めて参加したのである。きれいになった公園を見てすがすがしい思いになった。翌日、背筋が妙に痛むので何故だろうと思ったら、日頃しない公園の落ち葉集めを一生懸命やったおかげだったことに気付いた。

一つのことに一途(いちず)であること。それはそれだけで、とっても価値のあること。そして、実は幸せの要諦であること。一生懸命であることが迷いを払いのける秘訣であること。落ち葉集めをしながらそんなことを考えた。

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