「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

2014年9月

最期に

8月9日未明、母は眠ったままこの世に別れを告げました。

14年前に脳腫瘍の手術をする際、母を称して「鉄の女だから大丈夫だ」「照子さんを失うことは日本の損失だ」などと、異口同音に母に対する賞賛の言葉が飛び交っておりましたが、母に対する印象が、等しく、決して平凡とは言えないものなのだということを感じ、私は誇らしく思っているところです。

私個人としては、母の、あの「強さ」に、子供の頃から、負けじと、真正面からぶつかり合って、結局、自分自身を押し通して今日まできたわけですが、私にも母の正義感や妥協なき強さなど、受け継いでいるものが幾分なりともあるのかなと、改めて確認したりしておるところです。

母は、私の母というより、皆の母でした。事業家で、外交的な人でしたから、夕飯の時にもいないことがよくありました。しかし、仕事の忙しさのせいには絶対したくないと、食事はどんなことがあっても冷凍食品は使わない、手作りにすると、意地を通しておりました。とにかく家にじっとしている人ではなく、弟が小中学生の時は所謂「かぎっ子」で、弟は随分さびしい思いをよくしていたのではないかと思います。お中元・お歳暮で頂いた品物は、全部、近隣の皆さんに分け与えてしまう人でした。そして、私達子供の教育に対しても、妥協のない人でした。教育委員会に談判して、中学校の評判の悪い先生をやめさせたことは、有名な語り草となっています。

2000年9月の脳腫瘍の手術から14年が経ちました。振り返れば、母はあの時から次第次第に衰えていきました。2010年2月に老健に入所してからは、父は毎日、母の好きなプリンやゼリーを持って昼ごはんの介助に通いました。弟と私は曜日を決めて通いました。そして昨年6月、特養に移る際の健康診断で、医師から「肺がん、余命3か月、長くて半年」と宣告された時は、茫然となりました。それから私は、母との残された時間を悔いのないようにしたいと、毎日通うことにしました。最後の最後で、私としての悔いを残さないためにも、父に倣おうと心に決めたのです。そして、そうすることが母に対する供養になるとも思ったのです。昨年9月、検査で「がん」は誤診であることが判明しました。全身から力が抜けていくのを感じました。安堵感からです。しかし、それからも毎日通い続けました。特養での食事の介助はミキサー食で、スプーンで食べてくれない時は容器に入れて押し出す器具を使いました。食事の介助は極めて順調ではありましたが、母は次第に痩せていき、更に衰えていきました。私としては、せめて、しゃべってもらえるようにとの願いを込めての介助でした。しかし、結局それは叶いませんでした。

3か月前の5月18日に、呼吸不全で病院に緊急搬送されてからは点滴が続けられ、6月30日には胃瘻の手術、そして、今月4日に退院して特養に戻りましたが、亡くなる2週間前からは、眠っている時間が目立って多くなり、私が声掛けをし、手足や肩をマッサージしても、眠ったままの状態の時が多く見られるようになりました。私はこの頃から、母の、もう長くないことを覚悟していました。

ついに、こうして、その日は訪れてしまいました。線香花火の炎の様に、母は穏やかに燃え尽きました。母は14年間、よく頑張りました。父の毎日の必死の介護には頭が下がるばかりです。私達家族には悔いがありません。すべてをやり尽くしました。しかし、私個人として一つだけ悔いがあることと言えば、今、この歳になったからこそ、相談したいことがたくさんあるのに、できないという口惜しさです。母も、逝ってしまうのだな、と。あんなにバリバリ動いていた人も、逝ってしまうのか、と。母に限っては永遠に生き続けるものと、思っていた自分がいたことがわかりました。人はやはり、皆、逝ってしまうのか、と。当たり前のことが新しい発見の様に、驚愕と共に押し付けられる様に身に迫ってきました。

皆と大勢でにぎやかに時間を過ごすことの好きな母でした。葬儀の日、母が多くの人を集めてくれ、母の思い出話と、会葬者の近況など、思い思いの話に花を咲かせ、泣いて笑ってにぎやかに過ごしました。それが母への何よりの慰めと供養になったと思います。

長い、長い、4日間でした。が、あっという間の出来事でありました。

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