「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲

2014年7月

Victory Road

6月13日、サッカーW杯ブラジル大会が開幕した。1998年の初出場から五大会連続での出場となる日本代表23名のうち12名が、ヨーロッパのクラブに所属する選手である。

W杯という世界のステージの経験と評価が日本人選手の海外志向を促してきた。イングランド・プレミアリーグ、マンチェスター・ユナイテッドの香川真司やイタリア・セリエA、ACミランの本田圭佑、インテルの長友佑都など、名門の強豪クラブに所属する選手もいる。

そんな中、2013〜2014シーズン、ドイツ・ブンデスリーガで15得点を決め、得点ランキングトップ10入りを果たし、欧州主要リーグ日本人最多得点を更新したのが、マインツ所属の岡崎慎司だ。

2008年の代表デビューから わずか6年で、日本代表歴代ゴール数3位という結果を残すストライカーに成長した岡崎だが、高校卒業後、清水エスパルスとプロ契約を結んだ時は、チームの落ちこぼれ選手だった。「試合出場はおろか、練習についていくのさえ、やっとという状態だった。身長174僂板磴い掘足も遅い。技術もないし、視野も狭い。できないこと、わからないことだらけ。先輩に叱責されてもしょうがなかった。」

長所を自覚し、それを伸ばすことで自信を得て、成長する選手もいるが、岡崎は違った。「短所やコンプレックスから目を背けるのではなく、敢えてそれを見つめる。突然、長身選手になったり、俊足になったりするわけではない。ならば、この小さな身体で、どうすれば屈強なディフェンダーに負けないプレーができるかを考え抜きました。自分の未熟さを意識し、足りないものを埋めるためのトレーニングを重ねるしかないんです。そんな時、いろんな先輩たちのアドバイスは貴重な指針になりました。様々なキャリアを重ねた先輩の声は、僕にはまだない経験の末に生まれたもの。それを自分のものにすることで得られる学びは大きいんです。」

プロ入り3年目になると、試合出場の機会が増える。4年目の2008年には23歳以下の北京五輪代表に選出。その後、日本代表入りを果たし、W杯アジア予選ではW杯出場獲得を決めるゴールを挙げた。そしてエースストライカーの象徴、背番号9 を付け、2010 年W杯南アフリカ大会を迎えた。

「2006年のW杯ドイツ大会当時の僕は、Jリーグでも試合に出られない状況で、4年後のW杯に出るなんて、想像すらできなかった。なのに、9番をもらい、エースとしてW杯に出られる立場になった。それまでW杯なんて意識してこなかった僕も自然と『勝つためには僕が3ゴール決めます』とメディアに応えるようになり、決めなくてはいけないと考えるようになってしまった。 出場決定後は「すべてはW杯のために」という気持ちだけでサッカーをやっていました。今思うと、これがすべての間違いでした。」24歳の岡崎はこうして人生最大のプレッシャーを自らに課した。しかし、本番に近づくにつれて不調に陥る。大会に向けて日本を発つときには、デキモノで唇が大きく腫れ上がっていた。

南アフリカでの最後の調整試合となったジンバブエ戦では先発メンバーから外れた。「相手が疲れた試合途中から起用して、お前の良さを生かしたい。」岡崎の苦悩を感じ取っていた岡田武史監督はそう告げた。「悔しさよりも強く抱いたのは安堵感でした。先発から外されることにほっとしていたんです。」エースとしての自覚がストレスになっていたのだ。

「周囲からエースとして期待されることで、僕も僕自身に大きな期待を抱いていたんだと思います。大きく見せることで強くなれる選手もいるけれど、僕はそういうタイプではない。目の前のことを解決しながら一歩一歩、階段を上っていくタイプ。遠くの目標や理想を意識せず、今を精一杯やりきるという毎日を重ねていくことでしか成長できない。」

原点に立ち返った岡崎は2011年ドイツ・ブンデスリーガのシュツットガルトへ移籍する。当初は規律を守り組織のために奮闘する献身的なプレーが評価されたが、チームの成績低迷に伴い、出場機会が失われていった。加入3シーズン目の2012〜2013シーズンは1得点にとどまった。(次号に続く)

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