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今月のコラム 文⁄塾長 大山重憲
2014年3月
境地
脳科学者の茂木健一郎さんの言である。
僕の人生にはこれまでに大きな危機が二度あった。そのうちの一回については未だに詳細を語ることはできないのだけれど、下手をすればこの国で生きていけなくなるほどの危機だった。にっちもさっちもいかなくなった僕は、養老孟司先生にメールで助けを求めた。先生のお力を借りられれば事態を打開できる可能性があったのだ。先生からの返信メールは実に簡素なものだった。「人生には一回や二回、もう死んじゃうのではないかと思うようなことがあるけれど、まあ、大丈夫。」
僕はこの言葉を未だに忘れられずにいる。養老先生は日頃、人生だの生き方だのといった言葉をほとんど口になさらない。そういう方がおっしゃる「だいたい大丈夫」というという言葉には、とてつもない重みがあった。さりげない言葉の裏側に、先生のそれまでの人生が透けて見えるようだった。そして養老先生だけでなく、僕が脳科学の教えを受けた優れた先達も一様に、「多くを語らない」人々だった。それでも彼らは、能弁な人よりはるかに強いインパクトを僕に与えてくれたのである。
人は水面に頭を出している言葉ではなく、水面下にある大きな塊を想像することによって初めて救われる。水面下の塊とは、その言葉を発した人物が持っている「言葉にならない何か」としか言いようがない。そういう意味で、僕のもう一つの危機を救ってくれたのが、ブッダの「無記」という言葉だった。
この言葉に出会うまでの僕は、答えは必ず見つかるものだと信じていた。しかしブッダは「無記」という言葉を通して、人間はわからないこともあるのだと僕に語りかけていた。現代人は性急に答えを求め、答えさえ手に入れば安心して生きていけると信じている。しかし、人間には答えを知り得ないことがたくさんあり、知り得ないからこそ探究したいと強く思うのだ。裏返して言えば、生きることに答えなどあってはいけないのだと思う。大切なのは永遠に問い続けることなのだ。
答えがあると思い込まされ、誰かが決めた正解に最短距離で到達できた人間が優秀とみなされる社会と、正解がないことを前提として自分なりにevidence(証拠・根拠)を収集し、自分なりの考え方を周囲に問うていく社会では、学ぶことや生きることの楽しさがまるで違う。答えなんてなくていいのだと思えば、生きることが楽しくなり、そして、自力で生きようとする力が湧き上がってくる。
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「人間はわからないこともあるのだ」との言葉がどれほど救いになったことか。それまでの自分は、ものの意味が必ずあると考え、その意味を探し出すことに汲々としていた。しかし「人間には答えを知り得ないことがたくさんあるのだ」と教えられたことで、答えを見出すことの呪縛から解き放たれて、心身共に楽になったのだ。
友人と話していても「永遠に答えは出ないだろうね。」と言って諦念的に話に終止符を打っても、それでもなお悶々と考え続けていた。今思えば、正解を求めるために考えていた。しかし、大切なことは正解を求めるのではなく、「正解がないことを前提として自分なりにevidence(証拠・根拠)を収集し、自分なりの考え方を周囲に問う」ことなのだと教えられ、救われた思いがする。
正解がないからと言って、考えることを放棄することは怠慢以外の何物でもない。これからは今まで以上に気楽に考えを巡らせるようになるのではないかと思う。
冬季五輪の最中である。「やるべきことはすべてやった。自分の納得できる演技をするだけ」と自信を持って臨んでも、必ずしも期待通りでなかったりする。本人たちの内心はいかばかりだろう。そこには何らかの原因も意味もあるのだろうが、原因はわかったとしてもその意味は知り得ないのだ。それでいい。受験も然り。受験生諸君。その日は迫っています。結果の意味を敢えて問うことをせず、今は「合格」を念じて突き進んでください。吉報を待っています。