「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム バックナンバー 文⁄塾長 大山重憲

2010年10月

言葉

「インテリというのは自分で考え過ぎますからね、そのうち俺は何を考えていたんだろうって、わかんなくなってくるわけなんです。つまり、このテレビの裏っ方で言いますと、配線がガチャガチャに混み入ってるわけなんですよねぇ。ええ、その点私なんか線が一本だけですから、まあ、言ってみりゃ空っぽといいましょうか、叩けばコーンと澄んだ音がします。殴ってみましょうか?」(男はつらいよ 第3作より)

私が高校・大学の時、親からよく「理屈っぽい」と言われていました。自分ではそんな自覚は微塵もないどころか、私の周囲は自分より以上に緻密な論理をまくしたてる学生や先輩社会人に満ちていましたから、自分の物言いには論理的脆弱さや杜撰さを感じており、論理展開にはより完全な緻密さを追求していたのです。学校ではそれでよくても、家の中で親兄弟を相手に同じことをしたのですから、どれだけ「うざい」と思われたことでしょう。

社会人になって多種多様な人々と接する中で特に感じるようになったことは、人間関係で大切なことは、論理的な緻密さや完璧さでは決してなく、相手の矛盾や論理的一貫性の無さを指摘したりすることでもなく、相手を心情的に受け止め理解してあげること。思いやりのない言葉の応酬は、いかに無味乾燥で殺伐としたものであることか。結果として人を遠ざけ、場合によっては敵意さえ持たせてしまうこともあるということ。

論理的には完璧でとげとげしい物言いをする人より、優しさに満ちた言葉で朴訥な物言いをする人の方が、かえって説得力があったりするということも経験的にわかってきました。

社会人になって間もなく「感性を磨かなきゃだめだ」と言われたことも思い出します。私が例によってこまごまとした理屈をまくし立てていたからでしょう。「何を考えるか」も大切だけど「何を感じるか」も大切だということを教えてくれた気がしています。 あの寅さんは次のようにも語っています。

『人間、長い間生きてりゃ、いろんなことにぶつかるだろう。な、そんな時、俺みてえに勉強してないやつは、この振ったサイコロの出た目で決めるとか、その時の気分で決めるよりしょうがないな。ところが、勉強したやつは、自分の頭でキチンと筋道をたてて、はて、こういう時はどうしたらいいかなと考えることができるんだ。』
(男はつらいよ 第40作より)

やっぱり、勉強は必要なんです。
人情の厚い勉強家はきっと魅力ある人間に違いありません。

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