「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム バックナンバー 文⁄塾長 大山重憲

2010年3月

鍛練

受験渦中にいる受験生と保護者の皆さんに、最近読んだ本の中から一部分を紹介します。

個人的現実と社会的現実の相克の中で、当然、個人は自我というものを自発的にもある程度抑制し、社会を構成している他者と同じ一人の社会的人間として生存していかざるを得ない。ある意味で、個人的現実の社会的現実に対する敗北の上に人間の社会は成り立っているとも言える。

社会的現実との相克は人間が社会の一員として生きていく限り不可欠の原理です。それを一方的に忌避してどこかへ隠遁し、一人きりで生活することは不可能なことだ。個人的現実と社会的現実の相克にはいろいろな形があるが、ある視点から言えば、「他者との競争」とも言えます。

そのことを育ち巣立っていく子供たちに教える役目は、家庭の中では、母親に比べて社会的人間である父親の役割だと私は思います。しかし、今日のように女性の存在が社会的なものになってくれば、当然、女性の人生にも言い得ることで、女性だけの世界でも競争がないわけではないし、母親と父親の立場も重なってきている。

人間は国家対国家、民族対民族の競争をきりなく繰り返してきましたが、人間対人間あるいは組織対組織、企業対企業の競争は、競争ではあっても決して戦争ではない。たとえば、スポーツの世界は決められたルールの中での肉体的な競い合いです。そして、その競い合いがあるゆえに、優れた記録が誕生する。

(中略)

人間には、おのずとさまざまな長短があり、それでこそ人間社会の活力も魅力もあり、それぞれの人間にとっての適・不適な物事があり、成功・不成功があり得る。そうした人間社会の基本原理の上にこそ人間の社会は成り立っているので、だれもそれから目をそらすことはできはしない。

そして、成功・不成功、強者・弱者という視点から見れば、競争は明らかに敗れた者をも強者に育てます。今日の悪しき風潮のように「結果の平等」を主唱し、競争原理を頭から否定して、徒競争の最後の段階でみんなを立ち止まらせ全員が手をつないで同時にゴールインするなどというばかばかしい現象は、実は人間性そのものを否定する愚かなやり口でしかない。

実存主義の創始者の一人、哲学者のレーモン・アロンは、最近のひ弱で無内容な若者を評して、「私はこの頃の若者たちに同情する。それは、青春時代に彼らが人間が人間として自らを鍛え、強い自我を持って成長していくために不可欠なものがみんな無くなってしまったからだ」と非常にシニックに言っていました。(石原慎太郎著『真の指導者とは』より)

受験を研磨剤として、受験生が日に日に人間として磨かれ、精神的に強く逞しくなっているように感じます。頑張れ、受験生。

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