「信じます、君の可能性 伝えます、学ぶ心」  フェニックス アカデミー

今月のコラム バックナンバー 文⁄塾長 大山重憲

2009年10月

足跡

この夏、海岸の波打ち際の砂の上を歩いていました。寄せては返るこの波は、地球誕生のその時から今に至るまで、あるいは水蒸気となり雲となり、あるいは雨や雪となり、あるいは陸地に降り注いで地面に浸みわたり、あるいは湧水となって川を下り、再び大海に注がれてきたのかな、などと悠久の時間に思いを馳せました。

歩みを進めるその足が、砂に半ば吸い込まれるようにしながらのったりのったり歩いて行きました。新雪に描くシュプールも爽快なものですが、波がまっさらにしてくれた砂の上に自分の足跡を一つずつ置いていくのもまた心地いいものです。

『僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る ああ 自然よ父よ 僕を一人立ちさせた広大な父よ 僕から目を離さないで守る事をせよ 常に父の気魄を僕に充たせよ この遠い道程のため この遠い道程のため』(『道程』 高村光太郎)

自然・地球・宇宙の中で、ひとりの人という存在がいかに矮小なものか、しかし、いかに遠大なものか。人間は、物理的には有限な存在の中に無限な広がりを持つ精神世界を秘めていることを考えると、人が小宇宙といわれる所以を納得させられたりするのです。高村光太郎もあの詩を書いた時はきっと、「自然」と自分を含めた「人」に対して畏敬の念を覚えたのではないかと思うのです。

ふと、歩みを止めて何気なく後ろを振り返ってみました。すると、しっかり置いてきた足跡のひとつひとつが、波に消されて無くなっているではありませんか。「えっ…。」「僕の後ろに道は出来る」と光太郎は言ったのに…。かくも簡単に消えてなくなっているとは…。ちょっと寂しく感じました。しかし次の瞬間、善きにつけ悪しきにつけ、過去の諸々のしがらみを解き放って、大事なのは「今」と「前を向くこと」なんだと、陳腐な教訓じみたことを思ったりしました。

立ち止まっていたら道ができないどころか埋もれていってしまう。波は留まることを知らない。無慈悲にも呑み込んでしまう。こちらの事情もお構いなしに。だから、歩みを続けていかないと。一歩、また一歩と。

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